6月29日、30日と住職本山参拝研修で本願寺に行ってまいりました。
今回の記念講演は東工大准教授の上田紀行先生です。以前、この研修のテストケースで8年くらい前に行ったときはO大学の先生で、江藤淳先生の自死を厳しく非難されたことに対して憤りさえ感じました。今回はその真逆と言ってさえよい講演で、私たち僧侶の立場をもう一度考え直すきっかけとなりました。
講演テーマは「生き残れるか仏教?」です。
お寺というものは社会を支える存在であるが、今日では社会での出来事に対して、誰かがやってくれる、という無気力ささえ漂う。現実にどういう救いになるのかが語られることはない。しかしながら、批判をするということはまだ、期待感があるということであり、この5年もしくは10年のみなさんの社会との関わりで日本が変わっていくかもしれない。
経済不況が盛んに叫ばれるが、現代において問題なのは「生きる意味」の不況である。構造改革で格差が生じ、評価システムにびくびくする日本人の姿がある。このようなドライな評価システムは人の目を気にする日本人には受け入れがたいものである。今、この世紀にどのように生きるか、ということが問われてくる。
現代は何に苦しんでいるのだろうか?
自分自身を使い捨てと感じる若者が多い。実際、大学の授業で手を挙げさせたら、半数近くがそう感じているという結果に愕然とした。そんな中では自分をかけがえのない存在と感ずることはできない。自分を大切と感じないのだから、他人を大切に感じることはない。
この浸襲性の高い現代においては、他人の評価を恐れない、数値評価を止めていくということが必要ではないか。小学生のとき、クサイとかいじめられた子はそれをずっと引きずる。環境が変わればとたやすく言うが、実際本人は挽回できないと感じる。今の日本には再チャレンジはないと思いこみ、周りの空気を読みながら、ビクビクと多数派につく人がほとんどである。
私は何ものにも支えられていない、と感じる人が多い。最後にそこに行けばよい、私の場所があるという存在が必要である。お寺は敷居が高いとか、そういうネガティブなイメージをもたれることが多い。究極の支えとも言える阿弥陀様の本願力にあっている皆さんは、どうか人々の支えになってほしい。
最後に、ダライラマの言葉を借りれば、「評価はされないけれども、よき種をまき続ける」ということです、と話された。
相対評価、他人の評価を恐れない、ということを私たちの先人は行ってきた。数々の妙好人がよい例であると思う。そこには他力にあっている私、また還るところがあるというところが大きいように思う。現代に向き合い、伝えていくという原点に立ち返れば、何らかの兆しが見えてくるかもしれない。
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